自分の歴史を棚卸ししてみる機会として、ちょこちょこ更新しています。
どんな過程をへていまのわたしはつくられたのか。
興味&お時間のある方は覗いていってください。
どんな過程をへていまのわたしはつくられたのか。
興味&お時間のある方は覗いていってください。
幼少期
1988(昭和63)年5月12日17:00、山梨県富士吉田市の病院で重原家の長女として誕生。
生まれたときに雨が上がって虹が出たらしく「虹子」と名づけられそうになるが回避、
音楽好きの一家だったため「美音」になる予定だったが画数が良くなかったので
「美緒」に。美緒の「緒」は「鼻緒」「へその緒」など命・人と人とをつなぐ音楽の弦、という意味らしい(父親談)。
親戚中でも初めての子どもで、蝶よ花よと愛されかわいがられて育つ。
青藍幼稚園入園、お気に入りの遊びはセーラームーンごっこ。
いつも自分がセーラームーンじゃないと気に入らない。
セーラームーンっていうか、ジャイアン。笑
目立ちたがり屋のくせに、繊細な部分もあった。ちょっと言い合いになったり、おもちゃをとられたりするとすぐ泣く。砂場を壊されて泣いていたところを救ってくれた子と仲良しになる。
小学生時代
勉強好き。真面目。でもひょうきん。笑 学級会長とかよくやっていた。
イラストが好きで、マイキャラクターとかを生み出して運動会のマスコットキャラに
選ばれたりとかしてた。児童会では副会長選挙に4票差で敗れ書記に。
高速まとめに定評があったw
小3のとき、ぷよぷよのやりすぎで近視になる。はじめて眼鏡を買ってもらったときに
「わー世界が明るく見えるー!」って喜んでる隣で母が泣いてたのをなぜか一番覚えてる。笑
中学生
テニス部に入る気満々で小6終わりの春休みにめっちゃ握力鍛えていたのに
母の計らいと幼稚園からの親友に連れられていった部活動見学で吹奏楽部への入部が即決まる。担当はフルート。中学3年間はひたすら部活動中心の日々だった。マーチングもやっていて、2・3年生ではドラムメジャー(指揮者)を担当、全国大会に2年連続出場、金賞を獲得する。めちゃくちゃ楽しかった。あの時「日本一になるためには日本一練習しよう」って自己決定して心ゆくまでとことんやれたこと、それがちゃんと結果として出たことが今の自分の基礎を作ってると思う。感謝。
高校生
マーチングが続けたくて、都内の高校に進学を希望したが親に反対され、結局隣町の進学校に。吹奏楽部はそんなに強いところではなく、メンバーとの熱量の差に悩む。「過去の栄光を引きずってる」とか言われてすごい悩んだ時期。そんな中担任でも顧問でもない1人の先生との出会いで、「大人が楽しそうに見えたら、子ども達も大人になるのがきっと楽しみになるだろう」という私の教育観の根本を見つける。
大学
高校で出会った先生の母校に自ら推薦入試の出願書類を出して合格・進学。
教師になることを目指していたが、あえて教科指導ではなく「教育学」そのものを学べる学部を選択、学校経営学を専攻する。都留を出てはじめての一人暮らし。
吹奏楽団とその他教育系、ボランティアサークルを一番多い時で3つ掛け持ち。
多忙な日々。
大学3年の時、何もかも中途半端になっている自分に嫌気がさしていたころ
とりあえずではじめてみた「就活」で最初に出会ったアチーブメントの先輩社員が
高校時代の恩師と大学の同級生だったという運命の出会いを果たす。
先輩社員の話に惚れ込み、その場で筑波大での講演を依頼、初主催。
これをきっかけに、
毎月不定期に都内から社会人を招いて講演会・シェア会を行う学生団体
「Serendipity」を設立。アチーブメントの選考も受けて、内定。
大学3年の1月に内定してから、
採用活動のお手伝い・吹奏楽団での活動・学生団体の活動に精を出すようになる。
社会人1~5年目 / 2011~2016年 / 22〜27歳
1年と3ヶ月もの内定者期間中に、自分のあとに選考を受けて内定していく同期の選考サポートを教育実習の回以外休まず行っており、そのがんばり(?)を認められて異例の新卒人事配属(普通は営業からスタートする)。1年目から内定者教育プロジェクト責任者・新卒採用担当兼務を任される。
1年間内定者と寄り添い、並走し、時にぶつかり悩みながらがむしゃらに教育プログラムを企画運営し、年度末には社内で最もコーポレートフィロソフィーの一つ「挑戦」を体現した人として表彰を受ける。
が「育てたこの子達がどんな現場に行くことになるかを自分が知らないともっといいものはつくれない」と思い立ち、自ら志願して2年目より現場営業に。1年足らずで個人営業から法人部門に配置が変わり、中小企業の経営者向けの新卒採用コンサルティングを主に担当することとなる。のべ20社の新卒採用・研修プログラムの企画・運営に携わり、地方出張にも頻繁に出向く。
この頃、自分のキャパシティを明らかに超える仕事量から自分の仕事のしかたや働く意味を考えるようになり、一度退職を申し出る。が、周囲の説得を受けてもち直し「担当する会社を1社に絞る」という意味合いで自社採用担当に出戻り。年間約3000万円を投資して行われる社の一大プロジェクトと言われ打ち震えるも、やはり法人担当時に感じた違和感は拭い去れなかった。
出会う学生たちに「自分の気持ちに正直に、今も未来も幸せな人生は歩める」と伝えながら、「じゃあ自分は?」という疑問がどんどん大きくなっていた。
退職→都留でのくらし 2016〜2017年 27〜28歳
2016年1月、アチーブメント株式会社を退職。
「自分の気持ちに正直に、今も未来も幸せな人生を歩むため」の決断だった。
後ろ髪を引かれる思いもあったが、「他に替えはいくらでもきく。自分一人いなくなったところで会社に迷惑がかかるとか、思い上がりもいいところだ。あの会社は大丈夫だ。みんな優秀だし。それをうじうじ悩んでる私が蓋して邪魔してること自体がお互いにとって良くない」と思った。社長・取締役に正直に気持ちを伝え、まずは実家に帰ってしばらく療養(?)する予定でいた。が。
年末年始に実家にもどって退職の意向や今後の人生について、家族や親友と話をした。
そのなかで知人からNPO法人「都留環境フォーラム」の紹介を受け、面接を受けて内定。4月から正式勤務だったが、実質2月から活動に関わったりしながらこれまた知人の社会保険労務士事務所のお手伝いをさせてもらっていた。
2016年4月、NPO法人都留環境フォーラムの職員として正式に着任。5月には早速主催イベントを任される。都留の魅力を再発見する機会として非常に良いチャンスを頂いた反面、仕事の進め方やワークスタイルが「合わない」ことを感じ退職することに。ここで、フリーランスとして活動していく(というかそうせざるを得ない)ことを自覚する。
一時的に社会保険労務士事務所でお世話になりながら、友達とはじめた畑しごとに精をだし「動きながら考える」ことができたのには救われた。結果、縁あって都留市役所の臨時職員として採用が決まり、2016年9月から勤務をスタートする。
そしてちょうどこの頃、旦那氏とのおつきあいが始まる。
なんだかんだ「ゲストハウス」をやりたいと思って情報収集をしていた際に、
品川区大井町で彼が自宅をシェアハウス・ゲストハウス化しているという話を聞きつけ
話を聞くために連絡を取ったのが始まり。
都内で食事をした時、近況報告をしたところ都留に興味を持ってくれ、その週末に早速都留を訪れた彼に告白されて1週間考慮の末、結婚を前提としたお付き合いをスタートさせた。
市役所で勤務しながら、ゲストハウス開業の準備を始める。
同時に、カフェもやってみたかったので食品衛生責任者の資格をとる。
会社員時代に良く通っていた新宿のお店が、日替わりオーナー制になるという話を聞き
即立候補。9月〜これまでのべ7回、月1カフェオーナーとして活動。
2017年1月、入籍。東京都品川区に住所を移す。
4月から東京にもどって働くことも考えたが、1年間都留にもどって過ごす中で
まだやれることがある、と思い別居婚を選択。
知人がお引越しして空いた古民家を引き継ぎ借りて住み、
ここでゲストハウスを開業することに。
2017年4月。東京都品川区から山梨県都留市に住民票を移し
「地域おこし協力隊」として活動を開始。
同時に、「古民家ゲストハウスあわ」開業届けを提出し、個人事業主となる。
2017年9月には、結婚式をしました!
なのでいまやっていることを整理すると
・都留市地域おこし協力隊(これが主な収入源)
・古民家ゲストハウスあわ管理人
・(株)Ponnuf 都留コミュニティマネジャー
ですね。
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