パターンを「観る」
こんなことがあった。
これまで何度も陥ってきた、パターン。
この形に限らず、どんなひとにもあるだろう。
そしたらまたまた、きのうのヨガ教室でも
講師まきこさんがドンぴしゃなことを言う。
人にはパターンがある。
環境が変わったとしても、幾度となく同じ障害に突き当たる。
でもそこで「またここか。自分は成長していない」と
責めるのではなくて。
かといって力づくで乗り越えようとするのでもなくて。
ぐるぐる回っているかのようで、実は
螺旋階段のように次元が上昇しているの。
だからそこの奥行きを、観察して、捉えて。
まきこさんのヨガはいつもいつも、ヨガの範疇を超えている(ほめてる)。
私にとってヨガ教室は、
自分とつながり、自然とつながり、世界とつながる。
そのための足場をしっかりと固める、大切な時間になっている。
インド人に伝わるある教え
そしたらたまたま、こんなのを見つけた。
人に迷惑かけたらだめ!って日本人は教えるけど”人に迷惑かけて生きてるんだから相手の事も許してあげなさい”ってインド人は教えられるんだって〜。ふかい。
— あ (@bit_region1234) 2017年3月16日
気になって検索してみた。
インド人に見習う、迷惑をかけて生きていくこと。 | ファーストシップ ヨガ資格取得100%保証のヨガスクール 新宿 横浜 大宮 海外 全米 ヨガアライアンス正式認定校
ここからの引用。
ここインドは、「列に並ぶ」「ゴミを捨てない」「人前でゲップをしない」などの世界の人が普通にしていることが全く通じない別世界なのですが、悪いことばかりではなく、実は懐(ふところ)の深い一面もあるのです。どうやら彼らは、「あなたは人に迷惑をかけて生きていかなければならないのだから、人のことも受け入れてあげなさい。」と教えられ育っているようなのです。どうです?
だいぶ気持ちが楽になりませんか?あなたは一人ではないし、あなたは誰も一人にはさせない。日本人の「人に迷惑をかけてはいけない」という周りへの配慮は素晴らしいこと。
でも、実は、人に頼らなければならない人対して厳しい社会でもあるのです。私は迷惑かけないから、あなたも迷惑をかけないで。小さなことでも人に頼ることがとても悪いことのように思えてしまいます。
1回はいいけど、2回目だしな。。とか。
とても孤独になりやすいです。その点インド人は、、、混乱して夜中に電話をかけてくる。
帰ってくると誰か(もちろんインド人)が部屋入った形跡がある。
お前のものは俺のもの。
お前の時間は俺の時間。日本人なら家族にも遠慮してできないようなことを、彼らには他人にも平気でできるのです。でも、実際されてみると、たいして迷惑なことでもない。
自分のプライバシーへのこだわりを少し減らせばいいだけのこと。そして相手を受け入れる器さえあれば、相手もまた、いつでも受け入れてくれる。
相手がズカズカと踏み込んできるというのは、逆に言うと、相手にもズカズカ入っていける。
つまり相談しやすい雰囲気でもあります。もっと私の時間を使ってもいいよ。
もっと私のこと使ってもいいよ。迷惑をかけないことよりも、相手を迷惑だと思わないで受け入れる環境。抱えている問題は、問題として適切に処理しなければならない。
自分で解決できないときは、誰かに相談にすることは迷惑ではない。でもその問題に「迷惑をかける」という別の問題を足して、抱え込んでしまう。
そして、
「こんなことで人に頼るべきでない。」
「私には頼る人がいない」
と、どんどん孤独になっていく。人は一人では生きていけない。
分かりきったことなのに、プライバシーが重視されている今の時代には、人に頼ることはちょっとした勇気が必要です。でも逆に、「私はいつでも助けになれますよ。」
そういうメッセージを周りに送り続けることで、お互いが手を差し伸べ合いやすい空気を生み出すことができるのでしょう。
ああ、確かにそうだなぁ。
今までの私は、人に対して「迷惑をかけてはいけない」と
無意識のうちにすごく考えてた。
そして、迷惑をかけるひとに対して、かなり強いジャッジメントをしてた。しゅん。
バリキャリ時代は特にその傾向が強かった。
いまもたまに、この傾向が出てくることがある。
迷惑かけないように。仲間の役に立てるように。
役に立てない自分には、価値ない。
…潜在的にそう思っていたんだなといま思い返すとわかる。
その時はそこに向き合うことが怖くて、見ないようにしていたんだよね。
でもそれは、違う。
健全な絶望の先には、いつだって小さいけれど確かな「希望」がある
「自分にはなにもできない」という現実を直視すること。
変なプライドを捨てること。
そこで初めて、それでも支えてくれるひとの温かさを知ること。
迷惑をかけることに対して、罪悪感をもたないこと。
もたないことは無理かもしれない。だとしたらそれを、精一杯の感謝に変えること。
それこそが本当の強さなのかもしれないなぁって、思うようになった。
わたしもだれかになにかをしてあげた時に、欲しい言葉は
「ごめんね」よりも「ありがとう」だもん。
市役所で働いていて、わたしはいまほとんど何もしてない(と、思う)。
頼まれたことはすぐにやるけど、
自分から仕事を取りに行くということをしなくなった。
でもそれで支障が出たことはほとんどない。
わからないことはなんでもすぐ聞くし、
優しい先輩職員のみなさんに甘えまくっている。
東京にいた頃の給料の3分の1だっていうのもあるかもしれないけど。
やる気が、起きないのだ。
でもそれは決して悪いことじゃないと思ってる。
単純に役割が変わっただけだ。誰が良い、誰が悪いとかっていうことではなく。
人はみんなどこかに、役に立ちたい、力になりたいって気持ちをもってる。それを全力で受け取って、ありがとー!って表現することが、今わたしがいちばん得意かつ、すべきこと、したいことなんだなぁって、思う。
— ならみお(旧しげみお) (@shigemioden) 2016年10月20日
罪悪感を感じることもなく、
誰かに認めてもらえないと安心できないわけでもなく、
ただそこに「存在している」ということ。
そういう仕事も、存在するのだと思う。
そういう自分を許せるようになると、
たいして結果を作っていないひとのことも許せるようになってくる。
ふしぎなものだ。
そして何かをしてもらったら、
心の底から「ありがとうございます!」って
明るく言えるようになったことは、成長だなぁって思う。
そしてその明るい「ありがとうございます!」を見て
ああこの人に、生きていて欲しい。
そう思ってお金とか食べ物とかを、つい差し出してしまう
そういう関係性に囲まれて暮らすことができたら、幸せだなぁってふと思う。
そして今日
昨年夏からずっと関わり方を模索してきていて、
これからお手伝いすることになるであろうプロジェクトが
一歩前進した手応えがあった。
ここ数日、いろんな感情に翻弄されながらも
歩みを止めることなく、なんとか1つのステップを踏むまでにこぎつけた。
これもたくさんのひとに迷惑をかけながら、かけられながら
ゆるされて、ゆるしあって、結晶化してきたものだ。
きっとこれからもぐるぐると、わたしは螺旋階段を上がり続けるんだろうな。
ときに一休みしたり、下をみたり上をみたり。
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